正世は、保育士だ。彼女はこれまで百人近くの子供を育ててきたベテランだった。しかし、最近ある一人の園児のことで悩まされていた。
昼下がりの保育園は、園児の甲高いはしゃぎ声で満ちていた。庭で走り回る男の子、屋内でままごと遊びに興じる女の子。そして−部屋の隅っこに倒した状態で置かれたダンボール。正世は、これがなんであるかわかっていた。彼女は肩を落としながらそれに近づく。そうすると、中でVRグラスをかけてコントローラーを両手にもった四歳ぐらいの女の子が何やら手を動かしていた。
「えーと、理科ちゃん?」
正世がそう声をかけると、理科ちゃんはこっちを向いた。
「なあに?」
実はこのやけに近未来的なこの子こそが、彼女の悩みの種だった。
理科ちゃんは、朝のお集まりや、お昼ご飯、そして登園とお迎えの時は必ず顔を出すが、なぜかそれ以外はずっとこのダンボールの中にいるのだ。正世は全く周りの子と遊ぼうとしない彼女が心配だった−というよりはこの子をなんとかしなければベテラン保育士のプライドがすたると思っていた。
「何してるの?」
彼女がそう聞くと、理科ちゃんはため息まじりにこう言った。
「ブロックで遊んでいるの」
「ブロック?見えないわ」
そんな相手に彼女は肩を落としながらこう言った。
「このメガネをかけている人しか見えないの」
理科ちゃんはそう言うと、正世にかけていたVRグラスを渡した。彼女がそれをかけてみると、目の前に仮想空間が現れた。
「ああ……」
自分の真ん前にあるものを見て、正世は納得した。彼女の視界の前には、積まれたスケルトンタイプのブロックと、その中に組み込まれたスロープやトラックなどのコースパーツがあった。
「こう言うのって知育ゲームって言うんですって」
正世から返却されたVRグラスをかけ直しながら、理科ちゃんはそう言った。
「わかったわ。でも……」
「でも?」
彼女がそう言うと、ダンボールの主は一気に怪訝な顔になった。
「そんなのもいいけど、みんなと遊んでいる方がとても楽しいわよ」
「えー」
理科ちゃんは口元をへの字に曲げた。
「えーってなによ」
正世がそう言い返すと、彼女はダンボールの壁に背中をあずけながらこう言った。
「先生って、そうすれば協調性ってやつが身に付くって言いたいんでしょ」
それはわずか四歳の子供が知ってるはずない言葉だった。もちろん図星だ。理科ちゃんはさらに続ける。
「そう言うのって古いもん」
「え……」
さすがのベテランでもさすがに言い返せなかった。
「先生のような大人はみんな協調性だとかチームワークが大事だとか言ってるけど、そういうのを同調圧力って言うんだって。パパが言ってた」
(この子の父親って何者なのよ)
正世がそう思ってる間でも、理科ちゃんは演説を続けた。
「だからね、理科は自分らしく生きるんだって決めたんだ」
「でもね、理科ちゃん、そう言うのは大人になるために必要なのよ」
なんとか彼女に届くように、正世はそう諭した。だが、理科ちゃんの反応は斜め上のものだった。
「ねえ、先生。もしかしてそう言ってる私かっこいいって思ってるんでしょ」
「うっ……」
彼女は腰を抜かした。
「ベテランのプライドは捨てた方がいいよ」
理科ちゃんはそう言うと、ダンボールに戻った。正世はあぜんとしたままその場から動けなかった。
(終)