時は二〇五一年。ぼくはなぜか、日付さえ超えた遠い場所にいた。新天地での農作物の栽培に関する研究のためだ。日本とは勝手の違うここでの生活でのたったひとつの楽しみは、家族との会話だった。
夜八時。職員一人一人に割り当てられたコテージに帰ってきたぼくは、部屋の奥にあるテレビくらいの大きさの鏡の前に立った。
「鏡よ鏡」
別にうぬぼれ屋なわけではない。これは家族と話すための合言葉のようなものだ。
「芳佳とつないで」
すると、鏡にうつる自分の姿がゆがんで、まるで湖の水面に風が吹きつけた時のように、ゆらめいた。そしてそれが消えると、目の前に、若い女性が現れた。
「あら、ヒロくんじゃない」
鏡の向こうの彼女は、にっこりと笑った。
「やぁ」
彼女の名前は芳佳。ぼくの妻だ。ぼくは芳佳と六歳になる息子の健を置いてここに来た。そんな事情を抱えたぼくたちだったが、ちっとも寂しくなかった。いつでも会える魔法の鏡があるから。
マジカルミラー。御伽噺の魔女が使っていた魔法の鏡の名前をつけられたそれは、どんなに遠くに離れていてもまるですぐそこにいるように会話できる優れものだ。誰でも「鏡よ鏡」と唱えるだけで離れたところにいる人と会話できるのだ。最近は通信網の進歩も手伝って、マジカルミラーのシェアはどんどん上がっていた。
「健は寝てるかい?」
「ええ、寝てるわ」
ぼくたちは、夜になると決まってマジックミラー越しに会話を楽しんでいた。
「悪いね。いつも彼に寂しい思いをさせて」
「大丈夫よ。いつも学校で、ぼくのパパはすごい人なんだって言ってるから」
「はは、そうか」
「そう言うヒロくんこそ、大丈夫?」
「ああ、こっちはようやく地質調査が終わったとこだよ」
「そう。たまにはこっちに帰ってきてね」
「ああ」
ぼくたちは春から夏の始まりまでの間まで、さまざまなことを話した。昔の思い出話や、最近のこと。また、そんな日々の中で、こんなハプニングがあった。
その日も、ぼくと芳佳は普通に会話していた。
「それでね……」
彼女がそう言いかけたその時、急に芳佳の動きが止まった。
「芳佳?」
ぼくはそう彼女に声をかけたが、何も答えなかった。フリーズだな、こりゃ。そう思っていると、いきなり動き出した。
「健のお友達が」
ぼくは胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「どうしたの」
「ああ、ちょっとタイムラグが起きてね」
「そうなの」
時は過ぎて、季節は夏。
「お父さん!」
学校が夏休みになり、健が会話に加わった。
「健、学校は楽しいかい?」
「うん、とても楽しいよ」
「勉強とかは頑張ってる?」
「最近、理科で百点とったよ」
「すごいじゃないか」
健が話すことは、学校であったことや、友達のことだった。そんな会話の合間で、ぼくは、彼に自分の研究の話をした。
「父さんはね、砂漠でも新鮮な野菜を食べれるようにしたいんだ」
「すごーい」
その度に、健は目をキラキラとさせた。それを芳佳は優しい表情で見つめる。親子水入らずの幸せな時間。しかし、それは束の間だった。
季節が夏から秋に進んだ頃、作物の水生栽培の実証実験が始まった。ぼくは一日中研究室に出ずっぱりなので、自然とマジックミラーから足が遠のいていた。結局それの前に、久しぶりに立ったのは、冬を超えて春になった頃だった。
「鏡よ鏡、芳佳につないでくれ」
久々にそう唱えると、鏡に芳佳が現れた。久しぶりに見る彼女はどこか老けて見えた。
「やあ、芳佳。久しぶりだね」
「ヒロくん……」
芳佳は、変わらない微笑みを見せた。
「ヒロくん、あの……」
「それよりもいいお知らせがあるんだ」
ぼくは興奮していた。
「……」
「ぼくの研究が学会で通ったんだ。これで実用化できるよ」
「そう……」
彼女の態度はどこか冷たかった。
「で、今度学会で、オンライン発表するんだ。楽しみだよ」
「ねえ、ヒロくん」
「ん?」
「ヒロくんって、研究と家族どっちが大事なの?」
「そりゃあ、家族だよ」
ぼくはきっぱりとそう言った。
「研究がひと段落したら帰るから」
「研究って、いつ終わるの?」
彼女はテーブルをどん、と叩いた。
「こっちでは十年も経ったのよ」
それは信じらない一言だった。
「え?」
「研究なんかやめてこっちに帰ってきて。健の高校のサッカーの大会を見に行ってやって」
彼女は声を荒げながらそう言った。
「でも、プロジェクトが……」
ぼくは慌ててそう言った。それを見た彼女は怒りに震えながら言った。
「そうなの。あなたはそんなに研究が大事なのね。さよなら」
通信はそのまま切れた。
「芳佳?」
ぼくはもう一度繋ごうとした。しかしだめだった。ぼくは諦めて部屋のカーテンを開けた。すると、窓から赤い大地と漆黒の空に浮かぶ地球が現れた。
「弱ったなあ」
ぼくが今いるのは火星だ。そこで一年過ごしていたと思ったら、地球では十年経っていたとは。
「はあ……」
ぼくはため息をつきながらカーテンを閉めた。